こんにちは、りんごです。
ブログにご訪問頂きありがとうございます。
今日は、誰も興味ないとは承知で、少し私の子供の頃を振り返ってみたいと思います。
りんごの毒吐きにお付き合い頂けたら嬉しいです。
不快な方は、どうぞ読み飛ばしてくださいね。
まだ世の中にHSPなんていう概念もない昔々のお話です。
3人姉弟の長女に生まれました
3歳下の妹(ちょっと怖い)と、4歳下の弟(知的障碍)がいる3人姉弟の長女として生まれました。
60代の若さでガンで亡くなった父は職人でしたが、
ささいなことでイライラしては、すぐに不貞腐れて吐き出すように怒鳴り散らす日々。
めちゃくちゃ怖かったです。
そして母はと言えば、対局を行く能天気。考えるより先に言葉が出るタイプの人です。
彼女の言動に、どんなに傷ついたことか。
決して裕福ではなく、かといって食べるものに困るほど赤貧ではなくくらいのお家です。
いじめられっ子だった子供時代
いつも1~15歳年上のいとこのお下がりを着て、ぶっちゃけダサい子。
そして、常に自信がないから、どこを見るともなくぼーっとしている。
仲がいい友達もいないから、ずっと教室の片隅で本を読んでいる子供でした。
家の都合で小学1年生で転校した後は、気づくといじめられっ子でした。
最初は無視したり悪口を言ったり程度の軽いもの。
それは徐々にエスカレートし、小学3年生くらいになると、
- 授業が始まって筆箱を開けると空っぽ
- 突然、文房具を取り上げられて窓の外に投げられる
- 掃除の時など、わざとほうきでたたかれる
- 教科書などの学用品がゴミ箱から見つかる
などなど、いろいろありました。
今でこそ、いじめって問題になりますよね。
でも、昭和の時代、先生たちはほぼ見て見ぬふり。
ケガして帰って、母に話しても
「やられっぱなしのりんごが悪い」
「やられたら、倍にして返せ」
どこかで聞いたようなセリフですね。
耐えるしかありませんでした。
家も怖かった
昭和の時代の話です。
両親は何でも自分たちの価値観で決めつける。
弟と妹はわがままに育てられたので、その反動は私に。
妹たちが新しい服やおもちゃを買ってもらっていても
「妹たちはダメって言っても聞かないから。りんごは我慢できるでしょ」
私の友達と新しいおもちゃで遊んでいる妹を、部屋の隅で眺めてる自分。
祖父の姉に当たる大叔母のところに、大きくなったら養女に出すから週末はご機嫌取りに行ってこい、りんごはうちの子じゃない。
弟の知的障碍は、りんごがお母さんのお腹の中で賢さを全部持って出てしまったせいだ。なんて意地汚い、欲深い子だ。
りんごは「く〇婆(母は姑と仲が悪かった)」にそっくりで、見ててぞっとする。
う~ん・・・これだけ書くと、相当ですね。
まだまだ書ききれないくらいたくさんあります。
家族も親戚も、すごく苦手でした。
お陰で、未だに帰省するたびに体調が悪くなります。
ただ、悪意を持って言ってるのではなくて、思ってることを深く考えずにどんどん口に出す人たちなんだということも、しっかり理解していました。
子供でも、そういうところはちゃんと気づきます。
しょっちゅう寝込んでいた私を、ちゃんと病院にも連れて行ってくれていました。
一応成人するまで育ててもらっているのも事実です。
十人十色、いろんな人がいて、いろんな考えがあるということです。
どこかのサイトで、外向型のHSEは子供時代に温かい環境で育った人達ですと書かれているのを目にしたことがありますが、私の場合には当てはまらないですね。
そんな感じの子供時代を過ごしたりんごです。
今でいえば、HSCに対する理解も広まりつつありますが、そんな概念もなく
すぐに吐いたり熱を出したりする手のかかる子だったようです。
次回に続きます・・・